無名の日本人が単独でブラジル、アルゼンチン、ボリビアで13年間サッカーを続けられた理由。私が感じた南米サッカーの厳しさについて自分の体験を元に紹介します。前編では、サッカー以外の部分での南米の生活の厳しさについて話します。
南米の日常生活の厳しさ
国の経済的な状況から、南米での生活は日本で生まれ育った人にとっては苦しいと思います。具体的に「何がどう苦しいのか」というのは人それぞれ感じ方が異なりますし、言葉では伝えられないものですが、日本では当たり前にある生活のベースとなるものはないと思った方がいいです。サッカーが好きで、どんなことにも耐えられるという覚悟と忍耐力がなければ、日本が恋しくて耐えられなくなることが多いです。
南米サッカーに挑戦したい人や、南米でサッカーを学びたい人はたくさんいると思います。しかし、サッカーだけにスポットを当てて期待に胸を膨らませて南米に行ったら、サッカー以前に生活の苦しさで挫折してしまうでしょう。サッカーをしに行くことは間違いないですが、サッカーだけをするわけではありません。どんなサッカー選手にも普段の生活があり、1日のほとんどはサッカー以外のことをして過ごします。
南米に行く日本人にとっては、サッカーレベルの違いよりも、生活レベルの違いで大きなストレスを大きく感じます。 サッカーでなかなか結果が出ないと、より生活の苦しさが圧し掛かってきます。
もちろん、サッカーだけで生活できるプロ選手はごくわずかで、他で収入も必要になります。南米にサッカーをしにいくということは、経済的に貧しい南米で、外国人として生きていくという覚悟が必要なのです。
ただ、人は環境の生き物です。どんなに苦しくても慣れていくものです。頑張って耐えていれば気がつけば現地人のようになります。日本の生活と比べてしまうといつまで経ってもそのギャップに辛くなるだけです。せっかく地球の裏側まで行くのですから、思いっきり楽しむ方が有意義です。
アジア人に対する偏見と差別
南米に限らず、どこの他国へ行っても、国籍や人種による偏見や差別を受けると思います。しかし、サッカーの歴史が長く文化として栄えている南米で、アジア人がサッカーで勝負をするということは、より差別の対象となることは間違いないです。
サッカーは、1チーム30人の共同生活です。そして、勝負の世界で競争が激しいので、友情が深まる面もあれば、人同士のトラブルや落とし合いが多いという面もあります。サッカーに賭けている南米の選手にとっては、必ずしも「アジア人のお客さん」が歓迎できる存在ではないのです。
チームや個人の状態がいいときは全く問題はありません。しかし、負けた時やミスをしたきなど、うまくいかないときに一番の標的になりやすいのは「アジア人のお客さん」です。正直、チーム内で人種差別的な言動を受けることはとても多いです。しかし、チーム内での競争に生き残ることは、サッカーの実力だけではなく、あらゆる逆境に耐える精神力が必要になります。
ただでさえ、外国に住むということは自分がマイノリティー(少数派)になるので、偏見を受け、歯がゆい思いをすることは多くあります。日本人が思っているより、南米の人は日本のことを知らないですし、興味もありません。残念ながら、欧米などの比較的に南米人と人種が似ている国の人よりも、アジア人のほうが圧倒的に偏見や差別を受ける可能性が高いのは事実です。
ただ、長年住んでみて気づいたことは、憎くて差別しているわけでも、悪気があって差別的発言をしているわけではないということです。南米人の気質は、とにかく陽気で、人をからからかったり、バカにしたりするのが大好きです。ただ楽しんだり笑ったりするのが目的で行うことが多いので、「いちいち小さなことは気にしない」「もし嫌だったらハッキリと伝える」ことが大切で、素直に心無い言葉を受け止める必要はありません。
知らないことに対して偏見を持つのは当たり前のことですし、逆に自分もその偏見を逆手にとって冗談を言ってみたり、人をからかってみる強さも必要だと思います。ただ、「塵も積もれば山となる」とはこのことで、ひとつひとつの差別は小さくても、それが毎日コツコツ続いていくと大きなストレスになります。
私自身、真面目な性格なこともあり、偏見や差別によって非常に辛い想いをしていました。しかし、友人に言われた言葉で踏ん切りがつきました。それは「La sociedad no cambia, entonces cambia vos」意味は「社会は変わらないから、自分が変わりなさい」という言葉でした。
南米という、貧困、治安悪さ、政治の腐敗など問題が山積みの国に住んでいる現地の人たちも、日々歯がゆい想い、理不尽で苦しい想いをたくさんしているのです。そのことが「社会は変わらないから、自分のことは自分自身でなんとかするんだよ」という説得力のある強いメッセージとして心に響きました。その後、偏見や差別に腹を立てることが少なくなっていき、社会の醜さに嘆いて正論ばかりを唱えるよりも、自分が前に進む努力をするようになりました。
言語の壁
南米では、ブラジルではポルトガル語、それ以外の国ではスペイン語が話されます。単にスペイン語といっても国や地域によって大きな違いがあり、高いスペイン語能力がなければ区別して話すことは難しいでしょう。
なぜサッカーにおいて、言語の壁がそこまで高いのでしょうか。まず、南米のサッカー界では英語を話せる人はほとんどいません。一般では、大学生などは英語を上手に話せる人がたくさんいますが、サッカーではそんなことは一切ありません。ですから、唯一のコミュニケーションはスペイン語となります。それに加え、サッカーで話せされる言葉は辞書に載っている言葉ではなく専門用語やスラングが多いのが実状です。
また、南米各国のリーグにはプロでもアマチュアでも外国人選手がいますが、それらは全員、他の南米の国から来たスペイン語を母国語として話す選手たちです。すなわち自分1人だけがスペイン語がわからない状態に陥ってしまいます。
サッカーはチームスポーツなので、試合内外でコミュニケーションは必須です。監督も、言葉が通じない選手をピッチに送り込むことは不安で仕方ないはずです。ただでさえ外国人枠があり、限られた数の外国人選手しかチームに登録できないのに、そこに言葉の通じないアジア人を一枠使って入れることはチームにとって勇気のある決断になります。
サッカーの実力があるだけでは、試合には出れません。指示が伝わらないことはサッカーにとって致命的です。言語の問題でコミュニケーションが取れなくても、それを打破するだけの結果を出せる選手ならいいですが、南米の選手は実力も経験もありますし、難しいと思います。
言語の壁は非常に高いです。「言語なんてどうにかなる」と軽視していると、とても苦しみます。サッカーの良し悪しよりも、生きていくための基盤となる言語は、とても大事な要素です。
私は、南米に渡って3年過ぎて言語力がついてきた頃から現地での生活が楽しいと感じられるようになったり、サッカーでも、言葉がわからないことによる悪い意味での「特別扱い」をされなくなってきたのを感じるようになりました。
言語力を早く高めるほど、成功する可能性は高くなります。多くの人は十分な言語力がつく前に挫折して南米でサッカーを挑戦することを諦めてしまいます。コミュニケーションや人と人のつながりを大切にするラテン国だからこそ、そのベースとなる言語力は必須です。
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まとめ
南米でサッカーに挑戦するときに経験する南米サッカーの厳しさについて体験談を元に紹介しました。どのサッカー選手も、サッカ以外の私生活が充実してなければ成功しません。日本の真裏にある南米では文化や習慣の差が大きくあり、壁にぶつかることが多いと思います。
私が一番に言いたいことは、南米に限らず外国に行って何かに挑戦するとき、自分が少数派(マイノリティ)になるということを早く受け入れるべきだということです。いくら自分が培ってきた自国の常識や正論をかざしても、多数派にはかないません。たとえ自分が正しくても、多数の人が正しくないと言えばそれを黙って受け入れざるを得ない場合も多くあるということです。
サッカー以前に日常生活で、容姿が違うこと、言葉が喋れない事で差別や侮辱を受けて悔しい想いをすると思います。しかし、人の行動をコントロールすることは誰にもできません。小さいことにこだわらずに、芯を強く持って自分の目標を失わないことが大切です。