【サッカーの話】南米でサッカーをする厳しさ。 ≪中編≫

無名の日本人が単独でブラジル、アルゼンチン、ボリビアで13年間サッカーを続けられた理由。私が感じた南米サッカーの厳しさについて自分の体験を元に紹介します。中編では南米サッカーそのものに関する厳しさについて話します。

南米サッカーのレベルの高さ

まず、南米に初めて足を踏み入れてサッカーをした人は、「大したことないじゃないか」という感想を持つと思います。ブラジルやアルゼンチンなどサッカー大国では、超人的にサッカーが上手な人ばかりだと想像しがちですが、そんなことはありません。日本サッカーが上手ですし、どの世界でもみんな同じ人間だから、そこまで大きな差は出ません。南米でも下手な選手はたくさんいますし、「日本人でも十分にやれる!」という気持ちになります。

しかし、実際に南米でサッカー選手を長く続けていると、南米サッカーの本当のレベルの高さというのが見えてきます。サッカーとは、上手さを競う競技ではなく、試合の勝ち負けを競う競技です。いくら上手なプレーをしたところでいい得点をつけてもらえるわけではなく、試合に勝つことがサッカーの目的なのです。日本人の場合、いいプレーをしたらそこで満足してしまう傾向があります。しかし、本来は試合に勝つために自分が何ができるかが大事なのです。

そこで、南米人の勝負強さや底力というものを身に染みて感じてきます。たとえ日本人が技術で優っていたとしても、サッカーレベル(総合力)の高さでは南米の選手には劣っています。勝つための駒として、個人がどれだけ勝利に貢献できるかを見たら、やはり南米の選手というのは、サッカーをよく知っていて、年齢を問わずサッカーの玄人なので勝利に貢献できる役割を果たす可能性が高いです。
それは、サッカーが生活の一部になっている南米だからこそ、サッカーが常に身近にある環境で生まれ育ち、サッカーをよく知る人たちに囲まれてトレーニングをしていることにより、サッカーIQ(サッカーの頭の良さ)が非常に高いのが要因だと思います。

サッカーの技術やフィジカルというのは、ある程度のレベルまでくれば限界を迎えます。技術に関しては、止まったボールを蹴る精度は練習すればすれほど高められるかもしれませんが、サッカーは不特定の動きの中で、どのような判断をして的確に技術を使い分けるかが大事で、それは個人の練習だけでは高めることはできません。フィジカルに関しては18~20歳をピークに衰えていきます。

しかし、サッカーIQ(サッカーの頭の良さ)というのは、経験を積んでいくことによって得られ限界はありません。いいサッカーを常に肌で感じている南米は国民のサッカーレベルが非常に高いので、そこで戦うのはとても厳しいことです。
南米でサッカーをすると、選手同士だけでなくサッカーを観る人のレベルも高いので誤魔化しは一切効きません。サッカー選手にとって「サッカーを知らない」と思われるのは一番つらいことです。そんな環境でも重圧に負けず自信を持ち続けることが大切です。

南米で本当のサッカーの過酷さを知る

日本では、小さい頃から当たり前のように人工芝や整備されたグラウンドなどでサッカーをします。デコボコの汚いグラウンドを探すほうが大変だと思います。しかし、南米では日本のようなキレイなグラウンドでサッカーをできるのはトップレベルの選ばれたプロ選手だけです。

南米のサッカー選手の9割以上は、ドリブル、パス、シュートが普通にできるグラウンドでサッカーをできていません。プロチームですら雑草の生い茂って石ころで溢れているデコボコのグランドで、質の悪いサッカーボールを使ってトレーニングをしてるのが現状です。経済的に、グラウンドや用具を最適に管理するのが難しいのです。

デコボコのグラウンドでサッカーをすることがどれだけ難しいことか、多くの日本人は知らないと思います。サッカーの基本、いわゆる「止める、蹴る」という動作はフラットな接地面を前提に達成しますが、ボールがどこに転ぶかわからないグラウンドでは、たとえ正確な技術動作をしたとしても10回に5、6回はミスになってしまうので、事実上「サッカー」をするのが非常に困難です。ですから、そのようなグラウンドでの試合ではフィジカルコンタクトの多いサッカーになってしまい、キレイなサッカーというよりは、ガチャガチャした激しくタフな試合になる傾向があります。

そんなボールコントロールが”ままならない”環境下でのサッカーは、少しでも判断が遅れるとすぐに相手に削られます。普通なら2タッチで完結する動作が、3タッチ、4タッチしなければボールをコントロールできないわけですから、プレーは遅れてしまいます。そうして”もたもた”してるうちに相手に削られるのです。だから、選手は少しでも判断を早くしたり、プレーの工夫をして球離れを早くする必要があります。

本当の意味でのサッカーの上手さというのは、どんな状況下でも周りより際立ってプレーができることなんだと実感します。南米選手が個人技に優れている大きな理由のひとつは、小さい頃から劣悪なグラウンドでプレーしていることによって、より速い判断や工夫が必要となるので、通常より頭の回転が速いことだと思います。

また、日本では小さい頃から、当たり前のようにカッコいいウェアを着て、性能のいいシューズを履いてサッカーをしていると思います。しかし、南米ではそれも限られた選手しかできない贅沢です。アディダスやナイキなどの有名ブランドの本物を持つことは経済的に難しいですし、プロサッカー選手としての初給料で初めて本物のスパイクを買うというのはよくある話です。ウェアに関しても、プロクラブであっても支給してくれないところも多くあります。サッカー選手にとって、いいウェアを着て、いいシューズを履くことが努力の証であり、ステータスでもあるのです。

日本人が当たり前にしている選手として最低限の贅沢を、南米の選手は相当な努力して成功した選手しか享受できないという厳しさがあります。私自身、本当にサッカーが上手なチームメイトたちが、ボロボロのシューズを履いているのを見て、これが南米サッカーの厳しさなんだと心から実感しました。

「他者の靴を履く」という言葉があります。それは、「相手の立場で物事を考える・捉える」という意味で使われますが、その由来である「他者の靴」は、外から見ただけではその履き心地はわからない、だから他者の靴を履いてみて初めてその履き心地がわかるという意味です。私も、訳あってチームメイトのスパイクを借りたことがあって、履いてみた時に、その重さと、皮の硬さと、中敷きのすり減りと、ソールの分厚さが衝撃的で「こんなの履いていつもプレーしてるんだ」と驚きました。それは、州リーグのセミプロのチームにいた時の出来事でしたが、その選手もサッカーレベルはもちろんJリーグで通用するレベルのとてもいい選手です。

日本の習慣と比べると、南米サッカーの過酷さを強く感じます。もちろん彼らは過酷だと思ってやってるわけではないですが、南米サッカーは努力の量に対する対価があまりにも低いような気がします。良いものを身につけることがサッカーの価値ではないですが、いい選手がゴロゴロいるのにも関わらず何も与えられずに終わる選手が多すぎて、厳しい世界なんだ実感します。

南米サッカーのチーム内競争の激しさ

どこかのクラブに所属するだけでも激しい競争があって、それに勝ち残った選手だけがユニホームをもらえるわけですが、1チームには1ポジションごとに2人以上、約30人の選手が所属していて、試合に出れるのはたったの11人だけなので、チーム内の競争は非常に激しくなります。どこの世界でもレギュラー争いは激しいですが、南米ではやはりサッカーというのは貧困から抜け出せる唯一の方法だと思っている人もたくさんいますし、国民のサッカー熱が高すぎるために、「サッカーで成功したい」「有名になりたい」という志が人一番強いと感じます。

これは全て体験談ですが、練習中に私がローカールームにいない間に、チームメイトの誰かにバッグを引き裂かれて財布の中身をとられたことがあります。その前にもバッグの中身をあさられてモノをとられた経験があったので、常に練習に持っていくバッグには南京錠をつけていたのですが、それすら意味がなくなってしまったのです。そのようなことも自分だけがやられていたわけではなく、チーム内で金目のモノがなくなるというのはよくあることです。

また、練習中の殴り合いの喧嘩は当たり前に起こりますし、だからこそ誰も止めに入ることはありません。それより、周りは争いを煽って心理ゲームを仕掛けてきます。ロッカールームには監督公認でボクシンググローブが置いてあって、練習中に揉め事があったときは「あとでロッカールームでやり合う」という話になります。
アルゼンチン一部のチームでは、コロンビア人の選手が練習で気に食わなかったチームメイトに対して銃で脅したという出来事もありました。

サッカーで正当に競争をして、チーム内でのポジション争いに勝つことが本来のやり方で、もちろん多くの選手はサッカーで頑張って競い合います。しかし、現状ではどこのチームに行ってもサッカー以外のところでも落とし合いが起きているのは事実ですし、いがみ合い、ののしり合いというのが当然のことで容認されているのもあります。

しかし逆に言えば、わかりやすくて良いところもあります。ここまでわかりやすく「競争」というのをつきつけられると、厳しい競争の世界に身を置ていることを実感し、吹っ切れて気持ちが固まります。

試合に出続けることの厳しさ

南米サッカーの特徴として「個人技」がよくフォーカスされますが、本当の南米サッカーの特徴は、その「タフさ」にあります。国民性とも共通しますが、「男らしさ」や「気持ちの強さ」という文言が好きで、観てる人が感情移入して血が騒ぐような気持ちのぶつかり合いを好む傾向があります。

南米のサッカーファンが好む試合とは、「いい試合」より「激しい試合」です。下手なプレーをしても許されますが、臆病なプレーをしたらチームメイト、監督、ファン、メディアなど全てから叩かれます。とにかく負けるのが大嫌いで、負けるぐらいなら暴動を起こして試合を中止させるほどのず負けず嫌いです。結果至上主義で、勝ちにこだわるあまり気持ちが先回りして、フィジカル中心でつまらない試合になってしまうことが多くあります。しかし、それでも勝つことが大事で、技術や戦術は後回しで戦う”肉弾戦”のようになる試合がほとんどなので、なによりも「タフさ」が求められます。

南米サッカーで「個人技」が際立って注目される理由は、1つ目は、チーム戦術に重い比重を置いていないことです。ヨーロッパのように、攻撃でも守備でも明確な戦術がありチームカラーがはっきりしているわけではなく、南米チームの特徴は、攻撃は基本的に自由で、守備はコンパクトな陣形よりも間延びした状態で対人を重視します。だから、1対1の要素が大きくなるので「個人技」が際立つのです。
そして2つ目の理由は、南米では「結果重視」「フィジカル中心」のタフな試合を重ねているからこそ、本当の意味での「勝つための個人技」「プレッシャーに対応する個人技」が育まれているからです。

しかし、南米選手の「個人技」にしても、南米サッカーの強さにも、その根本には「気持ちの強さ」が大きく関係しています。南米選手の試合に賭ける想い、そして気持ちの強さは別格に思えます。試合中のマッチアップ相手からの執拗な言葉による侮辱はもちろんのこと、唾をかけれられたり、オフボール中の肘打ちや足の踏み付け、悪質なファウルなどは当たり前にあり、相手より少し有利に立つためならなんでもしてきます。勝つための執念は恐怖を覚えるぐらい感じますし、その力強さをファンも求めています。私自身も、試合が終わると交通事故にあったかのように身体中が痛くて、毎回這いつくばるようにして帰宅していました。

そんな中でシーズンを通して戦うのはとても大変なことです。ただでさえ、サッカーのレベルが高くて活躍するのが難しいのに、タフな試合を重ねることによる怪我やコンディション悪化、精神的な不安定にも耐える必要があります。

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まとめ

日本人から見た南米サッカーの特徴について紹介しました。一言にサッカーといっても、数多くのクラブがあり、プロフェッショナル・アマチュア含めディビションやクラブの規模によってサッカーは異なります。

しかし、私が南米サッカーについて共通して感じたことは、国民にとってのサッカーという存在の大きさです。サッカー選手はもちろん、そうでない人も生活の中でサッカーに触れる機会が多く、サッカーはスポーツの枠を越えて生活の一部になっています。テレビ、ラジオ、新聞や、街中のサッカーユニホームを着ている人、サッカーの小店など、”サッカー”を目や耳にしない日はありません。どんな小さなクラブでも、創設100年以上のクラブは当たり前で、地域の深く根付ており、歴史の深さを感じます。

その中で、サッカーをすることはそれだけ注目を浴びるわけですし、現地の人ですら大変なことです。だから、外国人としてその世界に入っていくことは、大きな責任があります。クラブに所属できたら、それはチームの一員となるだけではなく、地域の象徴的な存在となるのです。南米でサッカーするには、一生懸命やるだけでは足りません。現地の人々、サッカーに敬意を払って、気持ちを強く持って挑戦する必要があります。